金子 幸代: 鴎外と近代劇
森鷗外が戯曲を少なからず書いていることは知られているけれども、なかなか正面きって論じたものはない。演劇の素養が必要なのと、鷗外が参照した19世紀の西洋演劇そのものを調査し、検証する作業に手間がかかるからである。そこに切り込んだのが金子幸代さんである。鷗外のドイツ時代の観劇体験を徹底的に調べ上げ、何を見て、何を感じたのかを考察している。演劇人としての鷗外を考えることは、物語におけるドラマ的設定やシチュエーション、空間について考えることにもつながる。鷗外研究に新しい一頁を加えた一冊でもある。
古川 裕佳: 志賀直哉の家庭―女中・不良・主婦
志賀直哉論はいろいろ書かれているけれど、古川さんのこの著書は少し異色。志賀の「家庭」に焦点をあて、描かれた家族関係や家庭の構成メンバー、家庭の内と外を分ける暗黙のシステムについて考察を加えている。とりわけ副題にあるような「女中」や「主婦」については、男性研究者が十分考察できていなかった領域でもある。「暗夜行路」や「邦子」「焚火」についての論もあるように、全体としては志賀直哉の中期小説の解読が目指されていて、異色ぶりもほどよくバランスがとれている。逆にいえば、それが最初の論文集としては大人しく見えてしまうのが惜しい。
木股 知史: 石川啄木・一九〇九年
木股さんの1984年の論文集の増補新版が出た。いまから27年も前のことだ。大学院に入って研究を始めた頃だったから、よく覚えている。木股さんのこの本と、北大にいた小森陽一さん、成城にいた石原千秋さんの活躍が当時はひときわ目立っていた。なかでも木股さんは石川啄木に注目し、それも「ローマ字日記」についての論考が中心で、文学作品の評価とは異なり、同時代の文化や政治との関係をとらえることに狙いが定められていた。それまでの文学研究とは一線を画す新鮮さがあった。いまどき研究書の増補新版が出ることはめったにない。再刊に価する研究だったということだろう。
古川 隆久: 昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)
文理学部の同僚で史学科の古川さんの新著。読書会でも発言したのだけれど、実証史学の成果として素晴らしいが、古川さんおような歴史家が「孤独」という言葉を使って文学に接近していることに驚いた。毀誉褒貶、評価のむずかしい対象に即して調べていけば、寄り添う形になって理解してあげたくなる。評価はべつにしてそういう気持ちになるのは当然だと思う。内容的には思想形成、人格形成を追いかけるときに、何を教わったか、何を読み書きしたかということと共に、どのように人と関係し、どのように関係の摩擦を乗り越えたかということもあると思う。史料がないから困難だろうけれど。それにしても評伝の面白さを知る一冊だ。
- 関 礼子: 女性表象の近代―文学・記憶・視覚像
一葉研究者として知られる関礼子さんの新著。「女性表象」に焦点をあてて帝国憲法の時代における表象のありようを追究したもの。皇后の「御真影」の話から始まり、鏑木清方の「築地明石町」の絵と対照させながら、明治近代の女性へのまなざしがどのような偏差のなかにあったかを説き起こす。清方は樋口一葉の肖像画の画家でもあったことから、一葉を表象し、その表象を消費・再生産していった文化的制度の仕組みに論点が及んでいく。関さんらしい大著である。
六草 いちか: 鴎外の恋 舞姫エリスの真実
すでに新聞でもとりあげられたが、森鷗外「舞姫」のエリスのモデルを追究し、実在の女性をつきとめたのが本書。ドイツ在住のライターである著者はふとしたことからそのモデルの孫と知り合う。果たしてその孫の話はほんとうのことなのか。六草の探究が始まり、ほぼモデルと確定できる証拠を見出すにまでいたる。読み物としても面白いし、鷗外個人史の発見としても信憑性は高い。じつはこの六草さん、去年の日大通信教育部の授業で出会った学生さんでもある。たまたま担当した夏のスクーリングで集中講義をしたときに印象に残った人がいた。ベルリン在住だという彼女のレポートにも高評価を出したのだが、まさか、こんな注目すべき著作の書き手として再会するなんて。教師としてもうれしいかぎりです。
生田誠ほか: 書影でたどる関西の出版100 明治・大正・昭和の珍本稀書
関西の出版史を探索した新聞連載の記事をまとめたものなのだけれど、レイアウト、写真、造本がみごとで、「一見」に値する。知り合いでは宮内淳子さんが関与し、100冊の珍本稀書についての蘊蓄が傾けられる。教えられることばかりだが、なかには知っている本が出て来ると、思わずニヤリとする。こういう本を出す蓄積も勇気もないけれど、本作りの楽しさを久しぶりに感じさせてくれる本だった。版元である創元社の元編集者で、『著書と編集者の間』などの著書がある高橋輝次さんが関与しているらしい。さもありなんと言うべきか。
Edward Mack: Manufacturing Modern Japanese Literature: Publishing, Prizes, and the Ascription of Literary Value (Asia-Pacific: Culture, Politics, and Society)
昨年はあまり本の紹介をする余裕がなかったので、今年はやりますよ。さて、筆頭は一年前に出たワシントン大学のテッド・マックさんの論文集。無理やり訳せば、「近代日本文学を製造する」とでもいいましょうか。「出版、懸賞、そして文学的価値の帰属」という副題がついています。テッドは一貫して1920〜30年代の文学における市場の成立と産業化を研究してきました。円本の登場や芥川賞・直木賞の制定がどのような意味をもったかが歴史的文脈とともに掘り起こされています。小森陽一さんの紹介で知り合い、もはや師弟関係以上の友人となった、いま勢いのある研究者でもあります。
林 淑美: 批評の人間性 中野重治
この春に林さんの中野重治論が出た。「批評の人間性」というのは中野が書いた、平野謙らとの論争のさなかの評論の題名。それを中野の名前と組み合わせたのは、今ひとつ説明がないと一般には分かりにくい。「全人間的営み」という言い方には必ずしも共感しないが、林さんが中野を愛し、中野こそを最高の作家・思索者としているのはよく分かる。竹内さんの本のときにも書いたが、中野重治が絶対的に気になる作家であることはその通りだと思う。ただ、ぼくの場合は、角度が違っていて、あれだけ激烈なマルクス主義者であった中野がなぜ室生犀星の全集で全巻、解説を書くのかといった些末なことに興味がある。堀田善衞についてもそうだ。金沢や富山に縁があったから?そうかもしれないけれど、あえて違うと思いたい。中野の力こぶの入れ方のよく分かりにくいところ、奇妙さについてはこれをきっかけに考えてみたいと思う。
- 日本近代演劇史研究会編: 岸田國士の世界
阿部由香子さんから最新の岸田國士研究の共同論文集をいただいた。岸田國士が重要であることは認識してはいても、戯曲を読むだけではピンと来なくて敬遠したままだった。これはいい機会と思って、由紀草一氏の入門から初めて10数編の論文を拾い読みした。このところ必要あって日本の近代演劇史のにわか勉強をしているが、自分の先入観や思い込みに気づかされることが多い。岸田でも「チロルの秋」とか「ブランコ」から、フランス演劇にあこがれたモダニストと考えていたら間違いだなと痛感。能狂言や歌舞伎といった伝統演劇のなかから、どうやって近代日本の演劇を立ち上げるか。新派も新劇も新国劇も、そして浅草軽演劇や歌舞伎さえも、じつはさまざまな連携をしていたのだと思う。活動写真もふくめた、こうした幅広い文化の運動体をとらえる必要を思い知らされた。
石川 則夫: 文学言語の探究―記述行為論序説
國學院の石川さんの大著。Amazonに表紙カバーの画像があったのはいいけど、高さのあるグリーンの帯がついて印象的なデザインだったから、こうなるとただ真っ黒い本になってしまうのが残念。400ページを越える大著なのに「序説」とはこれいかにと思わせるが、タイトルにもあるように文学という言語表現の一形態を理論的に追究しようとしている。ソシュールと時枝誠記の話題から始まるのを見ると、原理的に考えようというのは分かるが、分かっていると思っているのが分からなくなる時枝的な言語観をもとにするというのでは弱い。小林秀雄や川端康成についての個別の論文の方が印象に残った。理論的な探究は個別的な対象へのアプローチを問い直すことから始めるのが重要ではないかと思う。方法をめぐるメタ分析的な方法論が大事なのはそのためである。
成田 龍一: 「戦争経験」の戦後史――語られた体験/証言/記憶 (シリーズ 戦争の経験を問う)
歴史家成田さんの新著。タイトルの如く「戦争体験」を語り、書いた言説の歴史性を追究した研究書。歴史の実態がどうだったかを問うのではなく、歴史はどのように語られたのかと言説レベルの問題を問う研究は、文学研究のわれわれにもおなじみの方法だが、その言説の史的変遷とその言説が書かれたそのときの歴史的現在との関係をどうとらえるかがいつも悩みの種となる。たとえば研究者であるぼくは2010年のこの時期に規定され、そのなかの錯綜する言説の網の目にからめとられながらみずからの言葉をくりだすが、では、ぼくの言説はすべていまに規定されるかと言えば、そうではない(と思いたい)。ぼくの言説のなかの複数の時間性をどうとらえるかを一方で考えながら、被制約性について考える。とりあえずいまのぼくのスタンスはこうなるんだが。
- 戸松 泉: 複数のテクストへ―樋口一葉と草稿研究
遅ればせながら戸松さんの大著を通読した。一葉研究で知られる戸松さんだが、この数年、テクストの生成論的研究に向き合っていることは知っていたが、残念ながらぼくが対象とする作家のテクストはどれも原稿や草稿が残っていないタイプのものだったので、遠巻きにして眺めているだけだった。こうして通読してみると、研究しうる対象は当然ながらプレテクストが無数に残る「古典」作家に限定されてしまうものの、1つのテクストが生成されていく過程における複数性の問題が浮上してくることは確かだ。いや、そもそも1つのテクストという概念が成り立ちうるのか、そういう問いをはらんでいると思う。生成論とはテクストの存在論的な探究なのだということをあらためて認識させられた。
浅岡 邦雄: 〈著者〉の出版史―権利と報酬をめぐる近代
浅岡さんの著書がようやく出た。副題には「権利と報酬をめぐる近代」とあり、帯には「作家の経済事情」と記されている。職業としての文学を考えれば、メディアや出版社との権利や契約関係が重要になる。近代的な法意識が芽吹いていない時期から、やがて出版市場の拡大時期になって当然ながら変化していくことになる。そのとき版権の問題がどうなったか、作家と出版社の契約はどうだったのか。『西国立志編』や『一年有半』などを例にした分析と、小杉天外、岩野泡鳴、籾山書店などをめぐる分析がくりだされる。実証に基づく推論は禁欲的すぎるほどだが、従来の文学研究にはカバーし得なかった領域が浮上してきたということだろう。
真銅 正宏: 永井荷風・ジャンルの彩り
真銅さんの荷風についての二冊目の論文集。荷風のさまざまな文体について書かれた4篇と、人情話や花柳小説、散策記、随筆的小説などジャンルごとに論じた11篇からなる。こうしたテーマ設定と構成力のうまさは、師匠の野口武彦さんからの遺伝でしょうか。たしかに荷風ほど、意識的・方法的な作家はいなかったかもしれない。同時に、こんなにいやらしい、つきあいにくい作家もいなかったろうと思います。それを真銅さんは荷風という作家の物語生成に吸い込まれるといった言い方で批評的にとらえていて、文学的な資産としての永井荷風テクストの利用法を提示しているのです。荷風を読んで、文学におけるジャンルを学べ。本書のテーゼはこれです。
竹内 栄美子: 戦後日本、中野重治という良心 (平凡社新書)
中野重治が気になる作家のひとりであることは確かなんだけれど、どうもまだ腑に落ちないことがたくさんある。中野重治を尊敬していた宇野重吉が名優であることは間違いないが、宇野重吉を名優ということですませられるのかというのと同じ。偉いし、確かに書いているものもいい。しかし、そう言ったら違う気がするのです。なんだか学者とも思えない口上だけど、中野にはそうした割り切れなさがある。今回の竹内さんの本は題名からしてそういうぼくの期待とは違うけれど、中野がもたらす魚の骨がノドに刺さった感じをあらためて意識させてくれました。いつか、どこかで中野重治を論じる、そんんな予感を覚えました。
前田塁: 紙の本が亡びるとき?
前田塁(市川眞人)さんの第2評論集。刺激的なタイトルに見られるように、紙の本が大きくその存在形態を変えようとするときに照準を合わせ、その変換をかぎとった作家の小説や、実際の印刷・出版状況への取材や批評をちりばめた一冊。この「あとがき」にほんの少し僕も登場するのだけれど、今後、紅野謙介は前田塁をかつて教えた人として記憶されるのかも(!?)。
五味渕 典嗣: 言葉を食べる―谷崎潤一郎
五味渕さんの谷崎論がようやく出ました。出る、出るとは聞いていたけれど、世織書房だからほんとに出るまで心配でしたが、ようやく出た。五味渕さんの谷崎論はテクスト分析のかたわら、いかにテクストの言葉を外の言葉に接続し、それによってテクストのなかでの意味作用にブレを生じさせるところにある。『三田文学』で学生時代にデビューして以来の進化をここにたどることができるだろう。近代文学研究を目指す人は必読です。
谷口 基: 怪談異譚―怨念の近代
このあいだ山田風太郎論などをまとめた谷口さんの新著。今回は「怪談」やホラー小説を論じたもの。三遊亭円朝の怪談咄から始まり、漱石「琴のそら音」、コロニアリズムの痕跡などがたどられる。円朝の復活は昨今の落語人気とも関係するかも知れないが、全集刊行のうわさも聞いた。桂歌丸も怪談をよく高座でやっているが、若手落語家も円朝にとりくんでみたいと語っているのを聞いたことがある。こうした動きを社会心理学的に読み解くのはなく論じてみたいものだが、谷口さんのいう「怨念」と「近代」のあいだにはさまってるものが大事ではないかと思う。それにしても中川さん、佐藤さん、谷口さんと三冊つづけて立教出身者。太宰研究の松本さんといい、立教勢が元気だ。
佐藤 秀明: 三島由紀夫の文学
佐藤さんのこれまでの三島論をまとめた本格的な論集。「岬にての物語」から「豊饒の海」までの個別の分析からなる19篇と、それ以外の8篇から成る。これまで三島由紀夫を面白いとは思いながらも論じることがなかったぼくからすると、なぜ三島を取り上げてこなかったのか、取り上げたくないのかについて考える機会ともなった。その点からすると後半の8篇から読み始めた。文学への愛憎や野坂昭如との対照、「金閣寺」の創作過程など、いろいろな切り口が示されていて、現在の三島研究の水準がよく分かる。試論社という出版社から出ているが、表紙の画像がないのが残念。(と書いたら画像が出るようになった。良かった、良かった。)
The ability to think like that is always a joy to bolehd
投稿情報: Revathi | 2013年2 月 5日 (火) 22:49