先日、麻布中学・高校の校長・氷上信廣さんの退任の会があった。氷上さんは麻布に40年近くつとめられ、最後の10年は校長職にあったが、いよいよ新校長の平先生に交代されることになり、そのお披露目の会が市ヶ谷で開催されたのである。この学校にぼくがつとめたのはわずか6年に過ぎなかったけれども、氷上さんという強烈な「倫理」教師の存在は生涯あざやかに残った。まったく自由で放任主義のように見られる学校の校風を大事にすること、そして同時に宿命として進学校でありつづけること。そうしないかぎり前者の自由もまた成り立たない。そうしたアポリアを抱えながら、しかし、徹底して思索することを勧め、批評的な野性を育てつつ、校風という不思議な伝統を生かしたのは、氷上さんに代表される麻布教師集団であった。退職にあたり、氷上さんは「汝の馬車を星に繋げ」という上下2巻の麻布文庫を出した。麻布文庫は麻布学園が発行している新書サイズのシリーズで、加藤史朗さんの「江原素六」をはじめ、現役やOBの教員たちが執筆している。氷上さんの本は、エマーソンの言葉にちなむ標題で、10年間の入学式・卒業式などセレモニーでの式辞、読書エッセイや亡くなった方への追悼などが収められている。これが実にいい。いまの中学高校である。平穏な日常があるはずがない。日々起きるさまざまな出来事に対応しながら、しかし、そのなかで知的であること、思索的であることが平易に説かれている。現役の教師で、これほど尊敬できる教師に出会ったことはなかったが、その氷上さんもいよいよ定年を迎えた。祖父は南原繁、父はニーチェ学者の氷上英廣(中島敦全集編纂者)という血筋を背負いながら、沖縄宮古島のハンセン病診療所へのボランティア活動を終生つづけ、ついに宮古へ永住するという。おつかれさまと言うとともに、次のはじまりに期待しよう。