元麻布学園の国語科教諭で、宮澤賢治研究者でもあった山内修さんが亡くなり、昨日、告別式があった。もう25年も前だが、大学院に在学していた時期、麻布で専任教員となり、職場を同じくしていた。享年63歳。早すぎる死だ。実際は7年前から舌ガンにかかり、以後、闘病生活をつづけていた。3年前に学校を辞めたときのハガキに「範読ができなくなったら教師は終わりだ」と書かれていて、いたたまれない思いがしたものだ。
山内さんは生徒から「瞬間湯沸かし器」と綽名されるぐらい、気が短くて怒りっぽかった。本人いわく、下町の職人の家に生まれ育って、インテリのような小利口な真似をしてられるかと。そのくせ心配ごとがあると居ても立ってもいられなくなり、他人事だろうと、相手と一体化して、泣きながら照れ、照れながら怒ってみせるような人物だった。まぎれもなく優情の人だったと思う。東大の国文出身で、三好行雄さんが師匠。東大全共闘時代のさなかを生き、その経験の痛みがまだ棘のように身に刺さっていたのだろう。学者なんか信用しない、そう言いながら、宮澤賢治の文学についてコツコツ文章を書いて、『年表読本宮澤賢治』『宮澤賢治研究ノート 受苦と祈り』(河出書房新社)の二冊となった。すでに夫人もガンで亡くされていて、寂しいものだぜと語っていた。1年ほど前、麻布の教職員組合の記念パーティで再会したのが最後になった。話がしづらいにもかかわらず、あいかわらずせっかちに突き刺すような批評を発していた姿が記憶に残る。ぼくなどは以前からその調子でよく怒られたものだった。葬儀場では山内さんが30代の頃にラジオで放送した講座が流れていた。啖呵をきるような滑らかな話しぶりがなつかしさとともに胸に迫った。しかし、再発をくりかえしたガンとよく闘ったよ、山内さん。7年はさすがに長かったねぇ。向こうで少しはのんびりしてください。