友人のM下さんに案内してもらい、横浜寿町、伊勢佐木町、黄金町、野毛を歩き回る。このM下さん、昼はOL、夜は野毛の都橋商店街でFemminist Bar「はる美」を経営する活動家。そんな彼女に暮れの横浜を案内していただこうという企画。M下さんの友人で、ガラス工芸作家のオラシオンさん、UCLAとイエールからのアメリカ人留学生2人、それにわれわれという組み合わせ。小川紳介の記録映画「どっこい人間節」で写された寿町とは様変わり、歳末でもあるためか、街は静か。しかし、ぶらぶらしている簡易宿泊所住まいのおやじさんたちはいずれも高齢化し、若者や中年のすがたはない。パトカーがときどき現れ、部屋の不審の連絡があると、訪ねていくのだという。派遣切りや非正規雇用問題が話題になっているが、ここは非正規雇用の本家本元。小泉改革以前から日本資本主義の調整弁として消費され尽くした場所である。
ここから伊勢佐木町モールまで歩くと、街のなかの格差をはっきりと目の当たりにすることができる。しかし、このモールもまだ本屋、古本屋があって、街が生きているのが分かる。さらに歩いて横浜橋商店街へ。ここは桂歌丸師匠が住まいに近く、商店街のキャラクターになっている。三吉演芸場が大衆演劇の常打ち小屋ともなっている下町の商店街。ここはアジアンマーケットも開かれるぐらい、韓国系食材店が多く、路地の店でチャンジャとゴマの葉漬けを買う。さらに中国系の店で鶏肉一羽をまるごと揚げたのを購入、おみやげとする。
大岡川に沿って、旧赤線街をのぞき、長谷川伸の記念碑を眺め、都橋商店街へ。すでに年末休みとなった「はる美」の看板を見た後、野毛で夕食。さまざまな階層や生活文化にすれ違い、応対に窮するときもあった半日でしたが、一緒に同行した留学生たちとまさに同じ立ち位置にあることを自覚させられたのでした。M下さん、オラシオンさん、ありがとうございました。
寿町の真ん中、福祉会館の前にある看板。多言語になっているのが分かります。
都橋商店街の2階建てのアパートみたいな雑居ビル。ここに「はる美」がある。くわしくは雑誌「美術手帖」最近号を見よ。
長谷川伸生誕の地の碑。面白いのはこの横に「長谷川伸の碑」という木の札があって、そこにこんな文章が載っていました。
「新コは明治一七年、この土地、日の出町の大岡川にかかる黄金橋のたもとで生れた。生家『駿河屋』はヨコハマ市街地建設のため野州から移住してきた請負業である。/新コはこの地で関八州の渡り職人衆から渡世の礼儀を学び、また神奈川県自由民権運動の魁、相州真土村騒動の指導者たちから、民衆の側に立って闘う男の姿を学んだ。/三歳時に母と生別し、面影を慕って、のち『瞼の母』を生んだ。『駿河屋』の没落によって小学校低学年で学業をあきらめ、三菱ドック(現みなとみらい21)に波止場小僧として働きに出た。外国人相手の土産物屋に飾られた浮世絵と、芝居小屋の看板を美術館とし、新聞の振り仮名で漢字の勉強をした。幼くして舐めた辛酸と、海に面して国際性と、川に沿って民族性を、浜風が丘にあたって人情の露にかわる港町が新コの人間性を磨き、長じてしがねえ男女の情愛をいつくしむ真の大衆作家にした。/また治外法権の居留地のちゃぶ屋に、六連発拳銃を懐に乗り込み、らしゃめんを解放する市井一個の侠者でもあった。/昭和三年、『沓掛時次郎』の出現をもって、演劇界は黙阿弥の時代から長谷川伸の時代にかわる。『一本刀土俵入り』『雪の渡り鳥』『舶来巾着切り』等が生まれる。長谷川伸の義理人情世界は西部劇『シェーン』にも、日活渡り鳥シリーズにも、近くはニューヨーク・インディ派作家にも影響しつづける国際艶歌である。大道芸の町野毛は、文藝において長谷川伸を師表とする。/一九九七年四月六日 桜吹雪の大岡川河畔にて。/平岡正明」。
うわー、さすが平岡セイメイ。これを見つけて記録しただけでも意味がありました。それにしても長谷川伸の影響を受けたインディーズの映画監督って誰のことなのだろう?
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